「夢は現実になった」
昭和47年卒 三野芳紀
私が特研生として物理化学教室に出入りするようになったのは,三回生の秋だったと記憶している。一緒に入った友達と部屋に行っても,実験などはそっちのけで,井上先生中心に,酒を酌み交わし,親睦を深めることにひたすら精を出していた。高価なウイスキーや当時一本数万円もするブランデーがあっという問に皆の胃袋に消えていった。話題といえば,釣り,麻雀,酒,食べ物など,多彩。それらに,クラシック音楽やオーディオさらには熱力学,反応速度論,レオロジーなどを違和感なくちりばめた芸術的内容でした。一方,ビールー杯で顔を真っ赤に染めた榊助手(現石田教授)は,それでも大学院目指して,英単語を覚えていた。あんなに盛り上がった中で,平然と勉強ができる根性は,やはりあの頃から半端じやなかったのだろう。四回生になり,特研生は名簿上16名となったが,皆が顔をそろえるのはコンパ以外になく,狭い研究室(現在の土井講師の部屋が唯一の研究室であった)でも苦にならなかった。向かいの測定室では,先生ご自慢のX繰回折装置が鎮座しており,グリセロリン酸Ca等の測定に活躍していた。パワーは大きくないが,古いだけに,露出部が多く,かなりのX線が漏れていたので,鉛板入りのつい立ての後から,恐々オペレートしたのを昨日のように思い出す。もう一方の測定室(現X線室の向かい)には,その年新たに導入された熱分析装置があり,これもまた高価な機械であった。私の特研テーマ(奥村Ichとのコンビでした)は,この装置を用いての「グリセロリン酸Caの熱分解」であった。丁度,その年から,特研発表会を学内で正式な行事として行うことになり,各教室から1演題ということであったが,光栄にも私が部屋を代表して,発表させて戴いた。その後,数多くの学会発表を経験したが,そのときの特研発表が最も緊張し,アガったものであった。発表の出だしの文章は今でも鮮明に覚えている。
榊さんの阪大大学院進学と永長さんのご退職のため,井上章君(川野先生の生化学教室出身)と私が助手として採用された。彼は,先生に負けない程の酒豪であり,三人とも責年のせいか,よく大トラになったものだ。飲むことだけではなく,もちろん研究も活発に行っていたことを,この辺りで付け加えておきたい(念のために)。その頃から,井上先生のテーマだけでなく,大田先生(生薬学)との共同で,生薬,特に竜骨などの鉱物生薬について物理化学的な研究を開始していた。この仕事は,私が後年,先生のご親友の下村滋教授(徳島人・薬品分析学)の下で修士課程を終了したのち,生薬教室(太田先生)の助手として,再就職できる切っ掛けとなった。
振り返ってみると,私の在籍した約4年間に,先生は研究室を広げ,最新式のX繰回折装置を私学助成金で購入された。後年,AFC装置と組み合わせることで,所謂“長屋のキャデラック”と呼ばれる強力なシステムが完成するわけであるが,私のいた時代は,その基礎作りの時代であった感がする。その後,石田教授や土井講師のご努力,さらには若いスタッフや学生たちの頑張りで,物理化学教室は順調に発展してきた。
先生は,以前,よく“世界に冠たる物理化学教室に一”と,熱っぼくその夢を語られていたが,今まさに「夢は現実になった」と言っても過言ではないと恩う。先生の「先見の明」に最大級の敬意を表して,拙い文章の筆を置きます。
先生,いつまでもお元気で!
平成3年(1991)とある集まりで
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