私の思い

昭和40年卒 小松慶子

 私が井上先生を初めてお見かけしたのは大阪薬科大学の入学試験の朝,近鉄南大阪線の電車の中でした。向い側に座っておられた2〜3人の中の一人で会話の内容から大阪薬科大学の先生方だなという事がわかりました。まだ高校生だった私には大人の雰囲気をもった素敵な先生!というのが井上先生に対する第一印象でした。
 無事入学して四回生の時私はためらわずに井上先生のいらっしやる衛生化学教室に所属しました。なまけ者の一学生である私は先生にとっては大勢の中の一人,また私からみると先生は雲の上の人でした。昭和40年3月卒業,さらに一年,私は副手として衛生化学教室に残りました。副手としての仕事は一生懸命した?つもりですが,それよりも井上先生を囲んで戸塚さん(現在,刀禰さん)達と楽しい会話がはずみました。薬の話,病気の話,音楽の話,お酒の話,食べ物の話…etc,etc,冬の寒い時などストーブを囲んで尽きることなく続いたものでした。言うまでもなく井上先生は大のクラッシックファンで私の知っている限りでは亡くなられた森坂先生と並んで最もその心をわかる人だと恩います口大学からの帰り,難波にある「人十(たいじゅう)」というレコード屋さんに連れて行っていただいたのをきっがけに私のLPレコードのコレクションはどんどんふえてゆきました。その中でも特にモーツァルトのピアノ協奏曲第20番K466(ピアノ:クララハスキル)はレコードがすり滅るのではないかと恩うくらい聞いたものです。私の大学時代の思い出は衛生化学教室で過ごしたこの一年に集中していたことをいま,改めて感じています。立ち去り難い思いを胸に,昭和41年,私は現在の大阪府立成人病センター腫瘍生化学研究室へと移りました。
 それから20数年…森坂先生の快気祝いのパーティーで先生にお会いする機会がありました。私にとっては井上先生は再び遠い存在となっていました。しばらく迷ったあげく,不安いっぱいで「お久しぶりです」と声をかけましたら「おっ」と言って再び20数年前が戻ってきた時は本当にホッとしました。そして現在の私の研究のこと,大阪薬大に学位をお願いしたいことなど話すと快く聞いて下さり,阪大微研から来られて問もない保坂先生を紹介して下さいました。学生時代,あまり勉強しなかった私が再び高い敷居をまたいで訪れた母校は暖かく,井上先生はポイントだけ的確に指摘して下さり,無事学位取得にこぎつけることができました。感謝の気持はこれからも仕事の場で生かさなければ…と思っています。
 社会に出て,いろんな人に接し,物事がうまくいくこともあればいかなかったりすることもありますが,音楽に出会って随分リフレッシュしてきたように恩います。社会生活のスタートとして過ごした衛生化学教室の思い出は風化しないでますます明瞭になっていくようです。沢山の人が先生を好きで,先生を慕い,それぞれの思いをもって人生を歩んでいます。私にとって,非上先生は孤独な私の人生に夢と希望を与えて下さった“あしながおじさん”であると思っています。
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