衛生・裁判化学研究室時代から

昭和39年卒 木村捷二郎

 昭和37年ぐらいからかな,多分,2回生の頃だったと恩う。「今日は午後からの実習はないし,研究室回りしょうか,それとも,どこかに決めでる?僕は衛生化学がいいな」私のテニス仲間の神原君(現,大日本製薬M),それに「君らどこの研究室に入るねん」と声をかけてきた西野君(現,日本チバガイギーM)と3人で「何と言う先生?まあ,行ったら分かるやろ」と恐る恐る衛生化学の研究室にでかけた。今のAll実習室の準備室である。瘻せて背の高い若い先生が「そうか,それで君ら何という名前?何回生?ここで何がしたいの?」「はい,2回生ですが,別にこれをしたいというのでなく,何でもやります,何をしたらよいのですか」「そりや,自分で決めるんや」と訳の分らん会話を交しながらの入室願であった。「今,助手さん居ないから後で分らんこと聞いて,まあ,この本でも読んどき」と見せられたのが,高木賊司先生の『定量分析の実験と計算』であった。「じゃ,今日,帰りに近鉄百貨店かユーゴに寄って捜してみます」「古本ないやろか,さっきの先生何ていう名前?」「井上先生て言うんやて,えらい男前やな」当時は,今のような特別実習制度はなく,学友会に文化・体育局と並んで科学局(?)というところに研究班の名前が登録されており,自分で選んで決めた。ここで実験のお手伝いをしたり,先生と雑談,実習用の器具置場,人によっていろいろ,中には誰とは言わんが,「ここの研究室,美人の先輩が多いので…,」というのも居た,大らかな時代だった。
 我々も研究室に入ることは入ったが,別に何をするでもなく,卒業するまで,私が研究室で何かお手伝いしたかなというのは,今の31教室での“二酸化炭素の濃度分布”や“南大阪地区の亜硫酸ガス濃度”の分析ぐらいである。私と神原君はもっぱらテニスに明け暮れ,雨の日に研究室にでかける毎日であった。「先生,今日は実習もないし,野球しましょか」「そやな,森坂にも電話しょうか上ある時,西野君日く「先生,僕の田舎では,こんなでかい磯もんが釣れまっせ」「え,そりや本当か,行こ,行こ,森坂にも言うわ」……この話については森坂先生の追悼文集「追憶」に紹介させて頂いた。我々の追いコン(針中野だったかな)の帰り,「もう一軒,どこか行こか,そやここやったら森坂先生どこ近いな,どの辺やったやろ」「鶴ケ岡との間や,わしが案内したる」とどやどや押しかけた。いつも森坂先生に合流,夜遅く,突然の訪問,今から思うと,本当に厚かましいことである。「これわしのコレクションや」「先生,こんなに音楽聞きはるんですか」「何,聞きたい,言うてみ,何でもあるぞ」「ポピュラーがいいですな」「そんなん音楽ちやうぞ,ほんならこれや」てたのが,セントルイスマーチ他……。ボリューム上げて,ガンガン鳴らす。「これもおもろいな,踊るか」と大騒ぎ。我々は恐いもん知らずの学生,先生方も若かった。
 卒業して,8年ぐらい経ったある日,「わしや,井上やけど森坂が頼みたいことあるらしい,連絡してんか」と電話があり。「森坂やけど,お前,放射線のこと分かるやろ」「はい,まあ何とか」「わしも週に一回行っているとこやけど,X線技師学校の放射化学の講義やったってや」が縁で,3年後には,母校に帰ることになり,今日に至った。
 衛生化学の研究室を訪れて30年である。「井上先生,本当にお世話になりました。今は,私にも学生が付き,研究室の卒業生も石数十名になろうとしていますが,学生の立場で分からなかったことが,今になって『ひや,自分もこんなんだったんや』と申し訳なく思います」「この頃,ご一緒に出かけることも少なくなりましたが,お互いに,休肝日を作りましょう,無駄かな!では,少しは,お酒を滅らすか,薄くしましょう」「いつまでも男前のクールな先生でおって下さい,近頃,私はカメラを持っての山歩きですが,どうせ『そんなしんどいこと,いや,』と断わられるでしょうな,じや,時々,お酒を少し飲んで,釣りに行きますか」


昭和39年(1964)頃?の井上先生と木村先生(若い!)海水パンツにベルトが付いていることに注意して下さい


昭和39年(1964)頃のハイキング
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