時の流れとともに

井上正敏

 時の流れに身をまかせてまさにのらりくらり今ではもう行く末のことを恩うよりも遥かに来し方への恩いを懐かしむ心が大であります。60有余年もつかの間に過ぎ人生も終わりに近付いたなあと恩う昨今であります。思えば早いもので昭和25年に大阪薬科大学に着任してよりもう40数年にもなりました。そして今まさに走年退職を迎えることになりました。「若い時を無駄にするなよ」とよく口では云うのですが着任の折り,前途はまさに無限大に思はれ膨大な時間をこれから過して行くことになんの疑問も持たなかったし,又一刻の時間を惜んで勤しむということは私には全く無縁で唯,漠然と置かれたその時その時をごくごく自然体で今日まで過して来たことを今又あらためて恩うのであります。人の事は余り気にせず,多分他人様から見れば非常な横着者に見えたであろうと思います。それがよかったのか悪かったかはいささか間題ではありますが……。
 それはさておき,私自身の来し方をふり返る年譜とでも申しますか幼い日の想い出に少しふれてみます。小学校は大阪のド真中,靱にあり天満の天神さんと御霊神社の氏子でありました。誰でも幼い日の記憶に一つや二つは実に鮮烈な思い出があるものだと恩います。それはたいそう楽しかったり,逆に非常に悪しき想い出であったりするものです。しかしたいていは前者より後者のことの方がはるかに多いのではないでしょうか。私もまさにその通りで小学一年生の最初の試験では国語の間題,忘れもしない出来事であります。配られた答案用紙を一瞥して,その問題が極めて易しい問題であることに気付いて,なんだ簡単だ,と思い答案用紙に答を書き込まないで一時間をたっぷり遊んで過したのです。当然白紙で提出したのですから先生にこっぴどく叱られ,母親にはその数倍の大目玉をくったのです。この時始めて試験は必ず鉛筆で答えを書き込むものであることを知らされました。一見何でもない失敗の様ですが,他人の余りやらない大きな失敗であり,この時,ものごとにはいろいろルールがあるということをあらためて知ったのです。したがってこの小学一年生の記憶は60年をへて今なお私の脳裏に焼きついています。それとあと一つ室戸台風の襲来です。当時は現在の様に気象情報は正確でなく,まさに突然の襲来でありました。朝登校しようとするととても歩けぬ位の強風で着板や瓦が紙切れのように乱れ飛び,子供心に始めて恐怖を感じた様に思うのです。しかし,矢張りそこは子供で風が収まるとすぐに網を持出し川へ魚をすくいに出掛け日頃すくっている魚等とちがい,海水が川へのぼって来たため珍しい海の魚が見られ大感激したことも,これ又忘れられない記憶であります。お粗末なのは夢中で遊んでいる時間に小学校では全員集合の合図があり,皆はちゃんと登校していて登校しなかった私は当然のこと乍ら翌日大目玉を食ったのは云う迄もないことです。
 昭和10年頃は平和が保たれていたのですが二・二六事件のあたりから時代は戦争に向かって傾斜して行きます。昭和11年の二・二六事件では東京に戒厳令が敷かれ,大人達がひどく不安気に話していたのが印象的でした。その次の年に盧溝橋事件が起こり,日中事変に突入,天王寺中学の3年の12月太平洋戦争が始まったのです。開戦時で鉄鋼生産量は米国の1に対して1/100の状態で,石油も備蓄が主体であり,緒戦の勝利からずっと消耗戦を強いられ,ミッドウェー海戦を境に敗戦へ向ったのは人々のよく知るところであり,そのさ中を多感な青春と共に少しづつ成長していったのです。
 昭和19年に旧制高知高校理甲に入学しました。戦争中とはいえ大阪とは異なり高知の町は失張り長閑で鏡川や高知城更には遠出して桂浜でのんびり寮歌を歌って過した当時のことは唯一平安な思い出です。しかし戦局は増々不利になり高知高2年の4月から勤労動員で尼崎のジュラルミン製造工場に配属になったのです。4月から終戦の8月15日までの問に尼崎,西宮の空襲があり,工場も送電線が切れアルミの電解炉が固まってしまい最後は何もすることが無い状態でした。終戦の前日砲兵工廠(今の大阪城公園の所のあった)の空襲を武庫川の土手の上から遠望したものです。1トン爆弾の落ちる度に薄曇りの雲に丁度池に小石を投げた時ひろがる波紋の様に一瞬にして紋が出来た様は今でも鮮明に記憶していることの一つです。
 そして終戦の詔勅の後は周りがシンとして非常に静かだったことが印象に残っています。暫く虚脱状態の後,秋から再び高等学校の授業が再開されましたが高知の町も我々の動員中に焼けて高校もバラックの校舎での再開でありました。食糧難の時代とは云へここではまだ魚等が出回り,輸送力がない分,漁師が町にあふれたこともあったのです。この高知で忘れられないもう1つの思い出は南海大地震で3年生の12月,翌日が期末試験で明け方墳についた途端物凄いゆれが来て煉瓦塀が倒れ,トランスのついた電柱が傾き地面にはいつくばってゆれの収まるのをひたすら待ったあの恐しさは夢忘れることのないものでありました。地震,雷,火事,親父,このランキングもむべなるかなと恩ったものです。この年になってもなお新幹線で静岡あたりを通過中にあの時の恐しさを思い出してぞっとすることもしばしばあります。
 さて大学は工学部へと決めていたのですが戦争で日本の多くの工場が灰になりいろいろ考えた末に京都大学医学部薬学科に入学しました。戦後の混乱期とは言へ京都は戦災にあっていないため何とか実習も出来,3回生の卒業実習は石黒先生の無機化学教室に入り,実験のかたわら,我々が飲むためのアルコールの蒸溜も行ったものです。当時よくメタノールを飲んで失明,死亡率の記事が伝えられたのもこの頃のことです。
 卒業前の工場見学でタイムレコーダーにお目にかかり恐れをなし,これは工場勤務等は性に合はない,全て時間で管理されてはかなわない等と極めて不遜な考えから就職は大阪薬大に決めました。それが昭和25年4月の事であります。教室は赤沢先生の無機化学教室,当時助手で男性は私1人,女性が11名,何とも格好のつかぬ黒一点で翌年森坂勝明君が来てくれて誠にほっとしたものです。そしてその彼も定年を待たず逝ってしまい実に実に残念な別れでありました。
 さて当時薬大にはまだガスが引かれていなかったため,助手の大事な仕事の1つは電気ヒーターのニクロム線の取換えでした。三頚コルベンが備品だった位ですから器具らしい器具は殆ど無かったものです。その頃京大の石黒教室で一冊の学位論文を見たのです。それは結核治療薬のパラアミノサリチル酸カルシウム(PAS‐Ca)の構造解析であります。当時はコンピューターがあるわけではなくタイガーの手廻し計算器による長時間をかけた非常な労作でありました。分子間距離のある平面図を見て非常な感銘を受けたのが昨日のことの様に思い出されます。
 昭和27年頃には大阪日本橋の電気屋街にようやく真空管が出始めそれを買い集めて熱分析の装置を組み実験したりしたものです。その中で興味を持ったのがグリセロリン酸カルシウム(CaG)でPAS‐Caの様に構造を見たいと言う想い切なるものがありました。しかし当時は夢の又夢でした。
 丁度その頃下村滋君(徳大名誉教授),森坂勝明君とレコードを聴くためのアンプを組んで楽しんだのも忘れられない思い出の一つであります。大学時代から始まったクラッシックレコードのコレクションは現在まで延々と続いているわけで退職後も私を慰めてくれる一番の友であろうと思います。
 薬大では昭和29年に衛生化学教室に移り,ここでは前川義裕先生,ついで松本党先生とご一緒でした。さらに昭和43年に物理化学教室に移ったわけです。


Gray Photo
昭和34年(1959) 衛生化学教室時代

 ついでに昭和27年当時をふり返り当時より現在までの音響機器の変遷とでも申しますかこのことについて少しふれてみます。その頃の国産の真空管は寿命が短くノイズも多くアメリカ製の真空管が全盛でした。大学時代からクラッシックのSP(78回転)を300枚位も集めました。薬大に就職して数年位たった頃にレコード屋でLPを見ることになったのです。回転数は33 1/3でSPを見ていた目には大袈裟に云えば停止寸前の様に思えたものです。SPで数枚の曲がたった1枚に入り,しかも音質が一挙に良くなったのに驚かされたものです。唯一枚三千円もしたのが当時の私の薄給では少々問題でした。真空管式のアンプには色々の回路があり音質も格段に向上しました。それから暫くは真空管が全盛でしたがついにトランジスターが登場,日本の技術は一挙に世界のトップクラスに踊り出たのです。この辺りまではLPはモノ(単音源)だったのがステレオになり,アンプスピーカーが2組づつ必要となったので遂に自作を止め,トランジスター製ステレオランプにしました。SPからLP程の変化ではなかったが音の広がりが圧倒的になったことは忘れられません。さらにLPを数百枚も集めた頃,今度はCDが出現しました。それまでは音の再生は振動系であったものが光学系で再生出来る様になり,アナログからデジタルに転換した画期的なものに変わりました。LPにつきものの針音は減り正にコンパクトになったので酔っぱらってLPの様に傷をつけにくくなったのは実に有難かったものです。(ちなみに受聴する大事なLP程傷がついてるのが今もって残念なところです。)唯,ノイズが無くなり音質は非常にきれいになりましたが,録音の良いLPに比べると何か暖かみが少なく,洗い過ぎた音の様にも感じます。ざらに1980年代後半になって出て来たのが音と一緒に映像を見る事の出来るLDでオペラやバレエは映像と一緒に見るものだと云うことを思い知りました。これはまた音楽以外に大好きな鉄道や航空機の映像を音と一緒に鑑賞出来非常に楽しいものです。最近はまたまたハイビジョンなるものがぼつぼつ話題になって来ました。正に賽の河原であります。音響機器の戦後の発達は目覚ましいものであったのですが同時に実験機器の発達もまた著しいものがありました。


RIGAKU AFC
自動四軸回折装置(AFC)と粉末X線回折装置(奥側)

 物理化学教室へ移った頃CaGの研究には矢張りX線機器が欲しく構造解析は到底無理なので粉末X線回折装置を先っ入手したものです。その頃は菅球式で高圧発生部は真空管式のものでしたが,それでもCaGの物性の変化はチェックすることが可能でした。唯,高圧部が真空管なのでよく断線したものです。そのうち交換すべき真空管が悪くなり半導体へ移行したのです。昭和40年後半頃になると全ての機器類がコンパクトで高性能なものに転換して行きました。昭和45年頃には石田寿昌君が助手として就任しました。石田君の星は九紫火星,私が二黒土星,共に撤座で星はうまく合致するし,その上性格がまことに両極端で私のズボラで面倒くさがりに対して彼は極めて勤勉にして熱心,対称の妙も極まれりという所で,それが現在まで非常にうまくいった理由かもしれません。彼は昭和47年に一度退職して阪大の大学院に入学,冨田研一先生の研究所に入りX線構造解析のテクニックを完全にマスターして51年に再び大阪薬大に帰っで来ました。彼が大学院に行っている間の昭和49年に文部省の私学助成金でX線の発生部を購入しました。これは通常の菅球式に比べて回転部があるため維持に手間がかかりますが出力は数倍もある超強力型であります。遂に便いこなせる人物と発生部が揃ったので昭和53年に自動因軸回折装置(AFC)を超強力の発生部に装着しました。この頃にはコンピューターの演算速度も相当速くなっていたので多くのサンプルが面白いように解けてゆきました。所がCaGだけは仲々良い単結晶が取れず,私が嘱託になる直前に遂に尹康子助手,石田教授によって解析することが出来ました。CaGの構造を見たいと思ってから40年近くかかったわけで解析図を見た時は誠に感無量のものがありました。

kai circle
自動四軸回折装置のXサークル部分中央に見えるキャピラリーの中に結晶が封入されている。

ORTEP draw
解析されたグリセロリン酸カルシウム(CaG)のpacking非対称単位中の4分子を示す。大きな丸がカルシウム原子,点線がイオン間の相互作用又は水素結合を示す。

 また平成二年には高分子解析用のIPも部屋に入れることが出来,X線構造解析ではスタッフ,装置共に他と比べて遜色の無いだけの部屋になりました。いずれにしても私がここまで無事にその役目を終えることの出来ましたのは恩師石黒武雄先生,中垣正幸先生,更にX線解析の人材を育てて頂きました冨田研一先生,また石田君を始め,私を支えてくれた部屋の皆様の御陰であることは云うまでもありません。心より感謝を申し上げます。

IP
奥が高分子用イメージングプレート(IP)手前はプレセッションカメラ。

CRT
IPで測定された回折データの処理画面データは回折点の強度(黒皮)として観測される

戻る - Back to MEMORIAL94 index