井上正敏先生と共に20年

-大阪薬科大学薬品物理化学教室での思い出-

大阪薬科大学教授 石田寿昌

 まず,井上正敏先生がご健康で無事67歳のご退任を迎えられましたことに心よりお祝い申し上げます。また,43年間の長い問本学の教育研究に貢献していただきましたことに対し厚く御礼申し上げます。私は昭和45年4月から2年間そして昭和51年から現在までの20年間にわたり井上先生と一緒に本学での教育(主として物理化学の講義と実習)と薬品物理化学教室での卒業研究生(学部4年生)や大学院生を対象とした研究に従事させていただいております。先生がご退任されるこの機会に教室での思い出(先生と私にとって大切な出来事であったと思っています)について少し書かせていただきます。昭和45年4月に井上先生の主宰されている薬品物理化学教室(以下,研究室と言います)に助手として採用していただきました。当時,先生はグリセロリン酸カルシウムの熱化学的および構造化学的研究を中心として仕事を進められていました。その当時は,これら研究の遂行に必要な精度の高い測定機器はほとんど市販されておらず,多くは,各自が製作した装置による実験でありました。とりわけ,井上先生の考案,試作された熱分析測定装置は独創的で精度良く,その装置を用いた医薬品の熱化学的挙動解析に関しいくつかの重要な知見を発表されると共に,熱分析に関する専門書として英語で出版され,国の内外から高い評価を受けておられました。構造化学研究としては,X線回折装置として理学電気製の2001型が導入されていて,医薬品の結晶多形やグリセロリン酸カルシウムにおいては結晶中における溶媒分子,特に水分子との相互作用について研究されていました。私は主に後者の研究を進めました。蛇足になりますが,最近,井上先生とよく次のような会話をします。『当時,X繰回折に関する理論はすでに確立され,世界中の多くの研究者によってその測定装置の改良が行われていたのに対し,熱分析のほうはそれほど研究されていない状況であり,それゆえ,我々はもっと積極的に熱分析に関する研究を押し進めるべきであった。それによって,我々のパイオニア的研究に独創性と高い学問的評価が与えられたと恩う。しかし,それを徹底しなかったことが本当に残念で悔やまれる』。昭和46年理学電気製の熱分析装置(井上先生の考案された装置と,その基本構成に関して,原理的には同じである)を導入することができ,多くの医薬品の熱挙動を積極的に調べると共に,グリセロリン酸カルシウムと水分子との相互作用について定量的な議論を行えるようになりました。昭和48年には私学助成費により本学に超強力X続発生装置,粉末X繰回折装置,小角散乱測定装置およびマイクロフレックス測定装置が導入され,研究室での医薬品の固体構造を中心とする物性研究が大いに進展しました。さらに,これらの装置は他分野での研究に積極的に利用ざれ,例えば,一連の生薬成分分析や品質検定の確立を始め,特にイヌリンの構造研究やその季節変化との関連について大きな研究成果を挙げることができました。一方,結晶構造の解析は分子に関する諸性質(例えば分子コンフォメーションなど)の解析により詳細な情報を与えることが可能であることより,昭和52年,今回も私学助成費によりテ既存の超強力X線発生装置と組み合わせた自動4触回折装置の導入に成功しました。



理学電気製X線発生装置,自動四触回折装置,粉末口析装置と当時の石田寿昌助手。装置も人も現役でガンガン働いています。



昭和53年(1978)ごろの井上先生,石日先生,三戸口女史

この装置は,現在,NMR,IR,UV,CD,MASS等と同様,未知な物質の構造決定を行う上で必要不可欠な機器となっていますが,当時,日本の他大学,とくに薬学関係においてはほとんど完備されておらず,それゆえ,この装置は本学を特徴づける代表的な研究機器の一つであったと言っても過言でありませんでした。当然のこととして,本学の各研究室はもとより日本全国からも結晶構造の解析依頼がありました。その頃より,研究室における研究テーマも少しづつ広げることができ,医薬品の構造多形の熱分析と構造解析,グリセロリン酸カルシウムの構造研究に加え,アミノ酸と核酸塩基との特異的相互作用についての構造化学的研究を追加することが出来ました。
 昭和57年4月,井上先生の強力なご支援により助教授に昇進させていただくことができ,同時に新しい研究室(第2薬品物理化学教室)が与えられました。これに伴い,井上先生の教室は第1薬品物理化学教室と名称が変更されました。この教室の増設のおかげで,その分,学生数と教室研究費が増え,従来以上に先生との研究を強力に押し進めることが出来ました。
 物質の構造解析には高速な電子計算機が必要不可欠であり,主に今までは大阪大学大型計算機センターのコンピューターを利用して研究を進めてきました。しかし,本学における各研究室の研究内容の多様化に伴い,本学独自の構造解析システムの構築とそれに適したコンピューター導入の必要性に迫られてきました。さらに,時を同じくして,学生に対するコンピューター教育の必要性から,昭和61年にはこれらの目的に適したコンピューターシステムの導入が認められました。



昭和63年(1988) 石田寿昌先生の日本薬学会奨励賞受賞祝賀会

 その結果,研究室としては,研究内容もさらに複雑な系にまで拡張することが出来るようになり,従来の研究テーマに加え,DNAフラグメントや酵素蛋白質等の生体高分子の立体構造の解析とその活性との相関に関する研究を追加することができました。



平成元年(1989) 教授昇進祝賀会

 平成元年4月,今回も井上先生の強力な推薦により,教授に昇進させていただくことができました。さらに,平成4年4月には以前に導入した超強力X続発生装置の老朽化に伴う更新と,生体高分子のデータ測定用イメージングプレート(多量のX繰回折データを短時間で収集できる)装置を導入することができました。現在,これら本学の中央機器を積極的に利用することで従来から行ってきた研究室の研究テーマの完成を目指し,大いに頑張っているところです。最近,20年以前より研究してきたグリセロリン酸カルシウムの立体構造とそれの水分子との相互作用の原子レベルでの解析に成功し,長年,分からなかった諸現象を定量的に説明できたことは,井上先生共々本当に嬉しいことでした。
 以上,簡単に井上先生が主宰された薬品物理化学研究室の心に残った出来事(歴史)について述べさせていただきました。過去20年間,私と井上先生との付き合いは,今,振り返れば短かったような気がいたします。しかし,その間,本当に色々のことがありました。そして,ここで書きました出来事は決して簡単ではなかったことを申し述べたく思います。目的達成のために,先生と色々努力しましたし,知恵をしぼりました。また,先生には本当にいやなことを平気でお願いしたことも沢山あります。今,薬品物理化学教室が第1および第2薬品物理化学教室としてそれなりの研究成果を発表できていますのは,井上先生のこれまでの広い心と忍耐,寛容によって始めて可能になっていることは周知の事実であります。井上先生はよく,『研究には博打的要素が必要である』と言われます。これは完全に結果の分かっている実験を行っても,その中には夢のあるおもしろい結果は皆無に近いことを意味していると解釈し,現在まで,自分なりに有意義で面白いと恩える実験を自由にさせていただきました。その結果として,それなりに意味のある興味深い結果を得ることもできましたが,無駄に終わった研究も沢山あります。このような失敗に対して井上先生は常に寛容でした。これは,私にとって精神的にたいへん救われると同時に,次への研究意欲の源になりました。この経験は今後の私の研究姿勢に大いに役立つものと思っています。
 井上先生との長いお付き合いの間には,先生にとって気に入らないことも多々あったことと思いますが,これからも先生の教えの一つである『分かりやすく,面白い博打的研究』を今後も積極的に押し進めたく思っていますので,どうかお許しください。最後になりましたが,先生には退任後も健康に留意され,いつまでも私達のよき相談者であり続けていただきますよう心よりお願い申し上げます。
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